伝えたいことと、忘れたくないこと
昔々から子供が苦手。赤ちゃんはもっと苦手。子供はどういう風に接して良いのか分からないし、赤ちゃんは乳臭い匂いが苦手、あとは泣かれると困る。
学生時代の友人が結婚し、子育てなどまったく似合わないように思っていたが、程なく母親になった。
「あなた、子供が好きだったっけ?」つい、聞いてみたら、
「他人のこどもは嫌だけど、自分のこどもは可愛いよ♪」と、答えが返ってきた。
なるほどねぇと、なぜか納得できて可笑しくもある(^^)
20代半ばで結婚し、子供はできなかったが、かといって無理に作りたいとは思わなかった。検査を受けて異常がないことを知った上で、それ以上の検査も受けなければ、不妊治療も受けていない。全ては自然に任せて、そして子供がいないままに現在に至っている。
のんびりと夫婦二人と猫二匹が暮らして行けたらそれで満足なのだが、しかし、何処か物足りないという気持ちもない訳ではない。子供を育てたいというのではなく、伝える相手がほしいのかもしれない。今まで経験してきたこと、父や母のこと、猫や花や、日々の出来事。
幼い頃に、母に何でも尋ねて、その都度教えて貰って、そうして母の経験してきたことなどが自分の中におさまって、そういう経験が無いのが物足りない。
だから話して伝える子供の代わりにホームページを立ち上げたと言っても良いかもしれない。
「浜辺のアルバム」の中に父の写真を残し、幼い頃のことを忘れないように書き、「手の温もり」の中に母の思い出を書き綴った。そうやってこれからも誰かに伝えたいことを書き記して行こうと思う。
赤ちゃんや子供が苦手と書いたが、姪が結婚し、子供が産まれ。自然と抱っこする機会もできるようになった。が、この姪の子供というのが大の人見知りで、簡単には抱かせてくれない。今はもう小学校に入学するくらいに大きくなり、ニコニコと人懐こい普通の子供だが、赤ちゃんの頃といったら、抱く前に手を差し伸べただけで泣き出すくらいである。ただ一度だけ、そろそろ眠くなった頃に抱き上げたら大人しく腕の中に収まった。そうしてしばらくするうちにストンと重くなった。またしばらくするとストンと重くなる。数回繰り返しているうちに腕にずしりと重い赤ん坊が眠っている。赤ん坊というのはこうして眠るものなのかと、新鮮な感覚を覚えた。
その姪の友人一家と縁ができた。
ある日、家族揃って我が家に遊びに来た時のこと。
生まれて数ヶ月の赤ちゃんを連れていて、この子が人見知りすることなくスッポリと腕の中に入ってくれる。母親が食事をしている間、抱かせて貰ったが、最初からずっと眠ったままである。まるで屈託なく腕の中にいて、それは重いけれど心地よい時間でもあった。
赤ちゃんが目を覚ますと、お母さんはかいがいしく世話をする。おむつを変えミルクを飲ませ、当たり前のことだけれど、細っこい身体のお母さんが、良く頑張っていると感心する。
姪も同じで華奢なのだが、二人とも子育てで鍛えられたような逞しい腕をしている。もちろん目に見える逞しさ、太い二の腕があるというのではない。ずしりと重い赤ん坊を時間の制限無く抱いて世話を続ける逞しさや強さが滲み出ているようで、経験のない私は頭が下がる思いだ。
赤ちゃんが苦手の理由の中には乳臭さがあるのだが、なぜかこの二人のお母さんの赤ん坊は、抱いた時にムッとするような乳臭さが上がって来なくて、いつまでも抱いていられる感じを覚えた。たぶん、毎日のお風呂に毎日の着替え、きちんと赤ん坊の世話ができているのだとそれもまた感心した。
この二人のお母さんがこの先どんなふうに子育てをし、どんな母親に育っていくのか、楽しみが一つ増えたような気がする。
1、母性について
母親というと母性や母性愛、母性本能という言葉が浮かんで来る。
もうずいぶん前のことだが、自分の二人の姉の二つの小さな出来事や。友人のことなどを思い出し、書き留めたいとおもう。
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姉と、おっぱい
古い記憶は上の姉と、姉の初めての赤ん坊のことである。当時の私はまだ高校生で、実家からバスで1時間ぐらいの高校のある町に下宿していた。実家のある十三湖から高校のある木造まで、まだ十分に鋪装道路など出来ていなくて。曲がりくねった細い道。穴凹の道には雨が降ると大きな水たまりができる。道が細くてバス同士のすれ違いが出来ず、どちらかのバ
スがバックをして道を譲るということは日常茶飯のことであった。
悪路に揺れる。すれ違いのための細かなバックに前進。雨の日の締め切った窓。乗ってから30分以上立っていなければならない混み具合。どれも車
酔いの要因となり、高校時代は町に下宿する生徒も多く、自分もその中の一人であった。
あるとき赤ん坊を連れた姉と町で落ち合い、一緒にバスで帰ることになった。実家のある十三湖に着く頃にはガラガラに空いてしまうが、始発の五所川原から車力辺りまでの混みようはすごく、30分以上立っているのも当たり前のことだった。確か土曜日の午後のことだったと思う。普段でも混んでいるバスが、さらにひどい混みようで、しかも姉の背におぶさっている赤ん坊はお腹が空いたのか大きな声で泣いている。
回りを見渡せばしかめ面の人 ばかりで、バスの車掌さんの、
「後ろのかた、もっと詰めてくださいー。後ろの方からもっと詰めてー」という声が大きくなってゆく。
乗ることが出来ずにバス停で待っている人もいて、どうやっても詰めることが出来なければ、次のバスということになるのだが、その次のバスが来るのは2時間も先のこともある。何としても詰めて乗って、と、みんなが殺気だつ雰囲気になって来る。
ようやくバスに乗れて発車し、姉を探すと誰かが譲ってくれたのかきちんと席に座っていて、しかし赤ん坊は泣き続け、正直に言えば、うるさくて恥ずかしいという気持ちが無かった訳ではない。
「うるさい赤ん坊、こんなに混んでいて、それだけでも嫌なのに、あの泣き声・・・」回りの誰もが同じような気持ちだったかもしれない。
当時、姉は21才か22才で、まだまだ若い、母親に成り立ての頃だった。その姉が、バスが発車すると同時くらいに背負っていた赤ん坊をくるりと胸に抱き寄せ、おっぱいを飲ませ始めたのである。元々色白の姉のこと、透き通るようにきれいな肌は妹の私が見ても羨ましいくらいだ。まだ若い母親が、すし詰めのバスの中でおっぱいを飲ませたその瞬間から潮が引くようにバスの中が静かになって行った。赤ん坊の泣き声がなくなったからだけではない、
おっぱいに、しがみつくようにしてゴクゴク飲んでいる赤ちゃんと、緊張気味に少し頬を紅潮させた若い母親。優しい清々しい光景に、殺気だっていた雰囲気が全て飲み込まれたような気がした。若い母子の様子を観ながら、乗客のどの顔も優しくなっているように感じる。
後年、その時のことを姉に聞いたことがあるが、ふふふ~と笑いながら、
「そんなの、当たり前のことでしょう」と、明るく言い放った。
ちょっと昔の、混んだ電車やバスの中では、人目を憚らずおっぱいを飲ませるのは当たり前のことだっかかもしれない。西岸良平氏のマンガ、「三丁目の夕日」の一コマなどを見ているようで、40年近くも前のことだが、優しく、そして鮮烈な記憶となって残っている。
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裸足で走る
三姉妹の二番目。つまり直ぐ上の姉の子育てのことでよく覚えている出来事というと、やはり子供たちが小さい時のことが一つ・・・。
上の姉が子育て中の時、私は下宿や、東京での就職と殆ど家にいなかったし、二番目の姉が子育ての時は、私が津軽で姉は関東と、これまた離れていて間近でどんな子育てをしているのか見ることは出来なかった。
ただいつもコツコツと時間をかけて料理を作ったり、細かい手作業の内職をしているのを知っているので、きめの細かい子育てをしているような、そんな想像をすることはできる。
関東在住の姉が実家に戻るというと冠婚葬祭やお盆に正月など、限られた時にしかチャンスは巡って来ない。なので、たまに実家で三姉妹が揃うと、それはもう子供そっちのけでお喋りに花がさいて賑やかなものである。
ある年のお盆の時だったと思う。家族連れで実家に帰った姉と久しぶりにお喋りを楽しんでいた。二人の姉と私と母と、場所は十三湖に面した両親の隠居部屋で、外を広く眺められる窓の他に、部屋から庭伝いに浜へ行けるようガラス戸も付いている。母が、漁に出る父を見送ったり、また漁から帰って来た父を迎えるのもその部屋から
だった。
窓の向こうには湖が広がって見えるが、家から砂浜までの間までは段差があって、部屋に座っていながら波打ち際を見る には少しだけ伸び上がるような感じにならなければならない。
よく晴れた日の昼頃だったと思う。ケラケラと笑いあいながら、お喋りの花が咲いていたその時、突然、直ぐ上の姉が 血相を変えて部屋から飛び出した。
ガラス戸から裸足のまま外に出て浜に向って走って行く。
部屋にいる私達は何が起きたのか分からずに、ただあっけにとられて様子を見ている他は無い。正直にいうと、その時、姉の子供に何が起きたのか記憶は定かではない。二人の子供のうち一人が湖の岸辺で転ぶかどうかしたらしく、泣いていたのかどうかも覚えていない。が、談笑しながらどういう気配りをすれば子供から目を離さずにいられるのか。あの時の、何もいわず飛び出して走っていった姉の姿は迫力あるものだった。
浜は子供たちは遊ぶにはもってこいの場所だが、延々と続く穏やかな砂浜ばかりではない。ゴロゴロした石もあれば、船をつけるための桟橋もある。走り回って遊んでいるうちに桟橋から落ちることもあるかもしれない。
何も見ていないようでいて、 しっかりと目を離さずにいる姉が頼もしく見えた出来事だった。
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床にストンと・・・
細かい話が続くが、どれもみな強く印象に残っていて忘れがたい出来事である。
次は友人の子育ての一コマ・・・
古くからの友人に末っ子が生まれた時のことである。我が家からは車で1時間程の街に住んでいる友人なので、ちょこっとの時間を利用して訪問できる。
友人は子育ての経験も豊富になっていて、眩しいくらいしっかりしたお母さんに見える。赤ちゃんは産まれて何ヶ月だろうか、まだハイハイもできていなくて、危なっかしいのだけれど抱かせてくれた♪
スッポリと腕の中におさまって、そうして屈託なく笑っている赤ん坊はやはり可愛いものだ。
ヘタだけれど一応はあやしてみたりしながら友人とお喋り。お茶を飲みお菓子を食べながらの楽しい時間だった筈だが、どんな話をしていたのかは全く記憶にない・・・って、そりゃ二十年も前のことなのだから、話の内容まで覚えていたら大したものだ。
話していたことは忘れてしまったが、いまだに忘れることができない事態が起きてしまった。というよりはそういう事を起こした本人は私である。お喋りを楽しみながら赤ちゃんを抱っこしていて、なぜか知らないけれど手を離してしまった。
手から離れた赤ちゃんはどうなったか。
場所はフローリングのリビングで、その床に赤ん坊はストンと落ちた。優しくいうとストンだけれど、実際にはゴロンと落ちて転がったような・・・抱いた手を離せばどうなるのか、なにも考えなかった私はバカだと思う。
床に転がった赤ちゃんが、ふぇーんと泣いたか、ぎゃーと泣いたか、それとも逞しくもニコニコとこっちを見上げたか、 記憶に残っていないけれど、素早く抱き起こしたのは母親である友人で、私はというと
「ワーッ ごめん! 大丈夫?」それだけ言うのがやっと。
そして次の瞬間である。
友人はリビングのそちこちからあっという間に座布団やらクッションを集めて赤ん坊の回りに厚く敷きつめた。本当にあっという間に、どっちに転んでも大丈夫というくらい、赤ちゃんに安全な場所が出来上がっていた。しかも赤ちゃんを床に落とした私を責める言葉は一言も無かった。
いまでもその時のことを思い出すことがあって、その度に分身の術を使ったような素早い動きをした友人に頭が下がる。
嬉しいことに赤ちゃんは健やかに育って、今はもう大人の仲間入りをしており、毎日をいきいきと過ごしているようだ。
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チロと、マレコのこと。 (マレコは津軽弁で赤ちゃんのこと)
幼い頃に仲のよい友達のような存在だったのは犬のペスで、それが、数日から1週間、居なくなっては帰って来てという状態を数回繰り返した後に、とうとう待っても待っても帰って来ない時がやってきた。そうしてしばらく後に我が家へ貰われてきた犬は真っ白いフワフワの小犬だった。
当時(S30年代半ば)はスピッツがもてはやされていた頃のことである。村にいる犬の中にもスピッツの雑種が増えつつあり、父が知人から貰ってきたのもそんな感じの犬である。家族の一員となった犬はチロと名前がつけられ、すくすくと育った。
成犬になったチロはやがて発情を迎え、そして出産。チロの側にはマレコが数匹キューキューと鳴いている。初めてみる犬のマレコが可愛くて珍しくて、代わる代わる覗きに行く。場所は家をぐるりと回った裏の物置のような場所だったと記憶している。両親が、吹きさらしの庭の犬小屋では子育てがかわいそうに思ったのかもしれない。物置の中であれば雨風も入らず安心して子育てが出来るだろう。
ある夜のこと、ワンワンと大きく吠えながらチロが玄関に駆け込んできた。なにかに怯えているのか、それとも何かを知らせたかったのか、ともかくよく吠える。産まれたばかりのマレコがいるから気がたっているのだろうと、父が裏の物置に連れて行って鎖で繋いできた。
それからしばらくして、また玄関にやってきて吠えている。玄関を前足で引っかきながら吠えていたかもしれない。見れば鎖がついていてその先には繋いだ先の板切れのようなものがついている。口や前足に血がついていたような記憶もあるがはっきりしない。ただ、チロの様子を見て只事でないことは直ぐに分かった。何かを知らせている、父も母も私達も裏の物置に急いだ。
キューキューと騒がしいマレコの鳴き声が聞こえて、しかし全部が揃っていない。回りを探すと、すのこのような板の隙間にマレコが挟まって動けないでいる。父が板を持ち上げて救い出し、それをチロが舐めて舐めて、そうして事はおさまった。
チロはどんな思いで助けを呼びに走ったのだろう。一旦は繋がれた鎖と、そうして繋いだ先の板切れごと走ってきた。
「すごいな、たいしたものだ。マレコを助けてほしくて人を呼びに来たんだ。本能だな」父が言った。母も二人の姉も私も口々に、
「チロはえらいね。チロはすごいね、マレコを助けたくて、皆を呼びに来たんだね」と言い合った。
マレコたちは板に挟まって危険な状態にあった子も含めて、みんな丈夫に育って可愛い小犬になり。それぞれに貰われて行った。
二人の姉や友人、そしてチロ、どれもみな小さな出来事だけれど、どの出来事もみな赤ちゃんを守るため頭で考えるより先に、瞬時に身体が動いている。だから目撃した私の中に鮮明な記憶として残っているのかもしれない。
今あらためて、赤ちゃんを助けるために、力一杯、人に助けを求めて走ったチロはえらかったと思う。なにしろ小学校の2年か3年の子供に、母性本能はすごいものだということを教えてくれたのだから♪
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私の中の母性は・・・
ほんの少しずつ、記憶に残っているエピソードを書きながら、さて、自分の中に母性と言うものはあるのだろうかと、今までのことをふり返り、思い出してみると、妊娠も出産も子育ても経験がある訳ではないが、たった一度だけ、「もしかしたら妊娠?」ということがあって、その時に感じたことや気持ちの移り変わりが母性の芽のようなものと感じている。
結婚して数年が経った頃のことである。不妊の検査の前か後かは覚えていないが、毎月きちんと来ていた月経が何故か遅れている。余程の事があっても狂うことの無い周期できちんきちんと来ていたものだ。それでも最初の1週間は、ただ遅れているのだと思っていた。次の1週間は「もしかしたら・・・」という気持ちが動いてきた。そうして3週目に入ると完全に妊娠したと思い込んだ。
4週目に夫に話し、実家の両親にも、もしかしたらと言うことで話をした。
嫁ぎ先の此の家から実家まで、およそ45分の道のりだが、普段でもゆっくりと車を走らせる夫が、揺れると身体に障るからと、更に慎重な運転になる。父も母も手放しで喜んだのは言うまでもない。
もしかしたらという疑問から確実に妊娠したと感じた時、子供が苦手な気持ちに変化が起きていた。お腹が大きくなることも、出産の不安もなにも感じない。頭の中に浮かんで来るのは子供が育っていく過程だった。どんな子供だろう。どんな学校に進んで、将来は何になりたいと言い出すのだろう。笑ったり、走ったり、転んだり、浮かんで来るのは全て明るい未来のことで、それは幸せな時間だったと言っていい。
そして5週目の朝に遅れていた月経がはじまった。突然だけれど自然にはじまった月経に唖然としたのを覚えている。激しい運動をした後でもなければ、転んだ訳でもない。妊娠したと思い込んで、夫はともかく実家の両親に知らせたのは失敗だったが、もうどうしようもないことである。受話器を持ってためらいながら話したら、電話の向こうで母が言った。
「あんたは、なんで出しちゃうのーー引っ込めなさい(笑)」
親は本当にありがたい。どんなにがっかりしたことだろう、その気持ちを抑えて笑って返してくれた。
もしかしたら妊娠か、という期間はたった2週間で終わった。が、しかし、その2週間で少しだけれど、親になる気持ちを味わえたことは幸せだったと言えるだろう。
子供や赤ちゃんが苦手な筈なのに、たった2週間の間に、産まれて来る赤ちゃんの将来のことまで想像してしまった自分がいることを知ったのは新鮮な驚きだった。世の中全ての人が同じような気持ちで妊娠出産している訳ではないことは分かっている。しかし、思いがけなく幸せだと思える時間を過ごしたことで、たとえば何らかの事情で、妊娠しながら子供を産めなかった人の切ない気持ちも少しだけれど分かるような気がする。
短いけれど不思議な、その期間があったことで、少しだけれど母性を理解できる芽のようなものが自分の中に生まれたと感謝している。
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