ハマナス と 月見草



出会いと別れ、節目の一言など、思い出すままに書き綴ります


 伝えたいことと、忘れたくないこと         モヒヒン2号と、パソコン先生

ハマナスと月見草    手の温もり 1    手の温もり 2    手の温もり 3    手の温もり 4



此の砂山に上がると、ハマナスの実や、這い松の実を食べながら
母と海から帰って来た昔がよみがえる

(写真裏の父のメモより)






ハマナスと月見草




  
古い写真を整理していて、思いがけず父の心に触れることが何度かあった。
  その中の一枚が上の写真で、じっと見ていると懐かしいというよりも切ない想いが込み上げる。

  まだ父が元気だった頃のこと、何気なく小さな鳩笛を手土産に実家へ行ったことがある。その小さな鳩笛を見て、喜んだのは母よりもむしろ父の方だった。ためつすがめつ眺めながら、
 「懐かしいなあ、子供の頃に母親がよく買ってきてくれたものだ」と、言った。
 父は幼い頃に母親を亡くしている。その母親がどういう事情で出かけるのか、たまに街に行くと土産に買ってきてくれるのが鳩笛だったそうだ。


  いつまでもじっと鳩笛を眺めている父が、私には珍しかった。
  どうしてその時に、父の幼い頃の話を聞いておかなかったのだろうと、今頃後悔している。その時でなくてもよかった。父が入院していた時も同じである。死を前にした父から話を聞く機会はたくさんあった。父もまた同じように話したいことがあったに違いない。それでも互いに昔の話に触れることはなく、旅立ってしまった。

  父が他界してしばらく後のことである。母から父との思い出話を聞いたことがある。海を見下ろせるハマナスが咲いている砂丘が好きで、二人で散歩することがたまにあり、そういう時、父が母に聞かせる歌があったそうだ。


    香りも高き白百合も
    浜の小陰の白菊も
    ああ、あの日の姿をそのままに
    今でも心に咲いている


  母が、歌いながら教えてくれたのだが、これ以上の歌詞も分からず、作者も曲名も何も分からない。ただ、ハマナスの咲いている浜の小高い場所で、父が母に歌って聞かせたこの歌には、幼い頃に亡くなった母親への想いが込められていたのかもしれない。



 
父が亡くなったのは1990年(平成2年)5月のことである。

 大正三年生まれの父は頑固なところがあって村の健康診断もあまり受ける人ではなく、したがって胃ガンの発見も遅れた。そうと分かった時には手遅れの状態だったが、余命半年という医師の言葉をくつがえし、術後二年半を生き抜いた。その間、仕事もこなし、母との旅行も楽しみ、好きだった刺し網などの漁もすることができた。
 両親の部屋は十三湖の目の前に位置している。
 母はいつも、父が船で出かけるのを小さな双眼鏡で追っていたそうだ。家の側で漁をする時はそのまま見続け、沖に行く時は帰りの船の姿が確認できると、またずっと双眼鏡で見続けていたという。父には病名を隠し、身体の中で何が起こっているのか一切知らせることは無かったが、それゆえ母には母なりの緊張感と共に、一時でも父の所作を見逃さない、または目に焼き付けておきたいという思いがあったのかもしれない。限られた時間の中で父も母も生きていたのだ。
 
 5月半ばに父は旅立った。青森市内の総合病院、窓から遠くに海がみえる部屋が父の病室だった。後々、弔問に訪れた方から知らされたが、父が亡くなった時刻はその日の最大干潮の時と一致するのだという。苦しみの少ない穏やかな時間の中で父は旅立ったが、もしかしたら好きだった海に、汐が引いていくように帰っていったのかもしれない。

 
           





母が自室から写した十三湖の日の出
左下に見えている花は母が大好きだった月見草


  
   上の写真は母が写したもので、父が漁をする姿をいつも双眼鏡で追いかけていた、部屋の窓から見える日の出の風景である。
   母は父が亡くなってからも、部屋から湖の景色を眺めることが好きだった。海辺へ散歩に行くのも好きだったし、旅行も楽しんだ。心臓に持病を持ち、若い頃から身体の弱かった母が、父の死後、どれだけ生きられるのだろうと心配したが、悲しみはなくならなくてもそれを乗り越え、活力のある生活ができるようになっていた。

 大正十年生まれ、元々が好奇心旺盛、お茶目で活発、なにより映画が大好きであった。古いところでは「グレンミラー物語」や「オーケストラの少女」など、またアクションものの新しい洋画も一人で先に観てきては、私達にも是非観なさいと薦めてくれる。晩年、孫娘の運転する車に乗って弘前へ観に行ったのは「タイタニック」だった。生前、母がもう一度観てみたいと話していた映画は「奇跡は二度と起こらない」という題名のものだが、これは私の記憶もはっきりしなくて、よく分からないままである。

 1999年暮れに母は旅立った。
 いつも湖を眺めていた部屋で倒れた母は、直ぐに病院に運ばれたが私達と言葉を交わすこともなく、父のもとにいってしまった。全く急の事で、しばらくは呆然とした日が続いていたが、今はこうして懐かしく思い出しながら父の事も母の事も書き綴ることが出来るようになった。









  手の温もり 1

 
 
 忘れられない手の感触がある。小さくて、ぷっくりした柔らかい手。
 雪の中で転げ回って遊んで、家に帰ると、冷たくて赤くなった小さな手を優しく自分の手のひらに包み、赤々と燃える薪ストーブの前で温めてくれた。街の親戚の家に遊びに行くと、まわりは大きな建物がいっぱいで不安になる。そういう時は母の手をしっかりと握って歩く。いつも手を繋いでいれば安心できた。


  毎年、秋になると、海に近い松林にキノコを探しにゆく。見つければ繋いでいた手を離してキノコ採りに夢中になるが、一つ所にじっとしている訳ではなく、次々にキノコを探して松林を歩く。そういう時はしっかりと手をつなぎ、時には歌を歌いながら松葉を踏みしめ、歩く。赤とんぼの歌が好きで、一緒に歌いながら歩いた。そんなに遠くまでいける訳もないのだが、手をつないで歌いながら山の中を歩くのは楽しいことだった。

  ある時、いつものように松林の中にキノコを探しに入って、なんでもない松林が違う場所のように思えた。秋になれば何十回となく歩く松林でも、日差しの加減で違うように見えるのかもしれない。かなり長い時間歩いて、キノコの収穫もなく家に帰ったら、父が渋い顔をして待っていた。山の中で迷ったと思ったのかもしれない。母がそそくさと台所に行ったあとで、父は私にこう聞いた。
  「何処をどう歩いて来たんだ。母さんは、お前に何か言っていたか。どんな話をしたのかな」
  私は答えた
  「歌を歌いながらキノコを探して歩いたよ。たくさん歩いたよ」
  後で考えたら、その時、両親はケンカをしていたのではないだろうか。些細な事でケンカをして、母は側にいた私を連れて山に向かった。キノコを探しながら、いや、探すふりをしながら、ただ歩いていたのではないだろうか。キノコを探すのが好きな母が、あんなに長く歩いて、少しの収穫もなく家に帰ったのである。その日の食卓も、夜の団欒のひとときも、なぜかいつもと違う静けさがあった。
  小さな私の手を握りしめて山の中を歩き回った母は、その時何を考えていたのだろう。

  どんなに仲のよい夫婦でも時にはケンカをすることがある。父と母も同じように、たまにはケンカをする。といっても大きな声を出すのでもなく、淡々としながら、それでも父母の両方とも口を開かないので、何かあったなと察する他はない。母は一年のうちに一度か二度ヒステリーを起こすことがあって、それでストレスも発散できたようだが、父の場合はまた異なる。
  母とケンカをした時の父はダンマリを決め込む。些細な事でも気に食わない事があると、苦虫を噛みつぶした様な顔でダンマリを続ける。ご飯を食べる時もシーン、好きな晩酌の支度を言いつける事もなくシーン、そういう日が数日続いて、ある日ふと気がつくと父も母もニコニコしている。あれは、なんだったのだろう。どこかで父の苦虫がいなくなる。その瞬間はいつなのか。

  ある時、母が父との仲直りの方法を教えてくれた。
  数日の冷戦状態が続くと、段々と面倒くさくなってくる。そういう時はだいたい父も同じような事を考えているらしい、そういう時を見計らって母は何をするのか。父に謝る訳ではない。そういう時のケンカは大抵些細な事が理由で、謝るもなにもないらしい。ではどうするのか。ムスッとした顔で歩いている父の背中をめがけて突進し、飛び乗るのだそうだ。
  母は小柄で父と比べるとかなり小さい。その母が父の背中に飛び乗る。おんぶの様に、もしかしたら大木に蝉のイメージだろうか、ともかく飛び乗った段階で父は大笑いし、苦虫がどこかへ消え去るらしい。まことに不思議な冷戦の終息方法である。母をお茶目と思うのはこういう話を聞いているからかもしれない。




   手の温もり 2

  母の手の温もりを「わずらわしい」と感じた時期がある。誰もが通る道で、簡単にいうと反抗期。無論、心底 親を嫌いになった訳ではなく、好きなのだがわずらわしい、話を聞くのも面倒くさい。自分には自分の歩きたい道があって、それは生まれ育った古里にいては歩けない道なのだ、と、思い込んでいる時代。

  家では父が勤めていた仕事(漁業改良普及員)をやめて商売を始めており、経済的なゆとりもあって高校へ進学することが出来た。家から25qほど離れた所にある県立高校に進学したが、今から40年近くも前の事、高度成長の時代には近づきつつあったが、青森の片田舎にはまだその気配もなく、一番困ったのは凸凹の道路である。つまり今のようにアスファルトが敷かれている訳ではない、通学の為にバスに乗れば直ぐに車酔い。それも40分もバスに揺られるのではたまったものではない。結局は家を離れて下宿をするのが当たり前だった。

  16才から家を出て下宿生活をすることになるのだが、そうして親元から離れる事は刺激的な事であった。週末や長い休みにはきちんと家に帰り家業を手伝うものの、両親との対話も少なくなり、自分の道は自分で決めるとばかり意気込んでいた。とにかく家や田舎から離れて外の世界に飛び出すことが先決だった。目標は東京にある。

  東京に出て、目指す仕事に就く為には高校から短大へ進まなくてはならない。しかし、事は簡単に進む筈がない。なにしろ家を離れて下宿生活を満喫、期末テストなどは赤点のオンパレードである、そういう状態で進学したいなどといっても許して貰える訳が無い。高校三年、18才になる娘が父に訴えた。
「こんな所にいて、興味のない仕事をしたって、なにも面白くない。東京に出て自分のやりたい仕事をしたい。だから短大に行かせてほしい」最後には涙が出ていた。
  それまで親に反発してきた娘が泣いて訴えて、だからといって直ぐに許す親ではない。そんな時、母が言った。
 「三人も娘がいるのだから、一人ぐらい変ったのがいても面白いかも・・・」
 翌日、父は進学する事を許してくれ、短大、そして東京へと目標通りに歩みを進める事になる。

 「三人も娘がいるのだから、一人ぐらい変ったのがいても面白い」
母の口からこの言葉を聞いた事は数回あったように記憶している。後になって感じた事だが、そういうふうに話ながら、子供が自分の手元から離れていく時期が来た事を自身に言い聞かせていたのではないだろうか。子供が親を嫌う時期があるのは当然の事と思うし、それが親離れに繋がる。そういう時にじっと我慢して思う通りにさせてくれた事に、感謝している。当時の母は更年期の症状を抱えながら、しかも家業が忙しく殆ど外に出る事はなかった。そういう母が広い世界に娘を送り出してくれたのだ。

  16の時から家を出ているが、たかだかバスで40分の所にいたのだ。親元にいるのと大した違いはない。しかし、高校卒業後に行くと決まった短大は静岡県の三島にあった。それ以後は東京に移ることになる。

  三島に出発する朝のことである。家を出て松林を抜け、360mの長い木の橋を渡ってバス停に行き、そこからバスで五所川原へ向かうことになるのだが、その日は珍しく父が途中まで送っていくと言う。その父と一緒に玄関を出て歩き始めた時、スッと母が側にきた。そして思いがけないほどにキュッと力を入れて私の手を握りしめた。
「行ってらっしゃい・・元気で・・」言葉少なに、微笑んで見送ってくれた母。
その後、母は家に入らずにしばらくの間、湖の桟橋に座っていたそうである。ぼんやりと、橋を歩いく娘の姿でも追っていたのだろうか。どういう時でも人に涙を見せる事のない母が、その時もたぶん一人で泣いていたのだろうと想像できた。母にも父にも反発を続けたが、結局はあの温かいぷっくりとした手のひらに包まれて過ごしていたのである。




   手の温もり 3


  三島での二年間はあっと言う間に過ぎてしまった。目標としている仕事につく為に勉強に励んでいた訳ではない。津軽とは掛け離れた温暖な気候と、景色、新しい友人。知っている人間がいない事の解放感に浸っていた。早い話が二年間を遊び呆けていたのである。何度となく足を運んだ伊豆半島や、長野、山梨などへの小旅行は忘れられない思い出となっている。

  そして東京へついたのは昭和50年の春三月。今から34年も前のことになる。のんきをし過ぎて就職活動という言葉も知らなかったのは本当に馬鹿な話だが、焦りながらも仕事先を決めることができ、引っ越しも終えた。港区芝公園に近い古いアパートの一室。4畳半一つに小さな台所と押し入れが自分のスペースで、玄関、トイレ、物干し場は共同、風呂などある筈がない。それでも勤め先の浜松町に近いのはありがたかった。歩いて通える距離にある。部屋代は1万6千円で、共同の物干し場、つまり屋根に上がれば間近に東京タワーが見える。ようやく憧れの街に住むことができたのだ。

  勤めた先は小さな出版社だった。
  商店主や職人さん、様々な職種の経営者から話を聞いて文章にし、掲載料を頂いて月刊誌に掲載する、というのが自分に与えられた仕事。頂いた掲載料のなかから一部を給料として貰う、つまり歩合制の会社である。といっても最初から上手くいく筈はない、同期入社の仲間達も仕事が取れずに次々と辞めていく人が多かった。お金がなくて給料を前借りする。それも底を突いて質屋へいく。薄切りの食パン6枚で2〜3日を過ごしたこともあった。そんな時である、田舎から小包が届いたのだ。

  心のどこかで、家から送られてくるだろう小包を待っていたのかもしれない。三島にいた頃もそうだった。丁寧に括られた包みの中には沢山の食べ物が入っている。干物もあればお菓子やチョコレートも、街にいれば簡単に買える物でも、母は荷物のなかに入れてくれた。そしてそのどこかに、父には内緒で小遣いを忍ばせているのである。3千円の時もあれば5千円のこともあった。

  東京のアパートに、初めて送られてきた小包を夢中になって開いた。お菓子や干物、一つ一つを新聞紙やチラシで包んであって、それを全部広げていく、きっとどこかにある筈だ。一通り見終えて、しかし目的のものはどこにもない。そんな筈はない、あの母のことだ、どこかにある。もう一度包みを広げていく、そしてもう一度。結局はどこにも、当てにしていたお金の包みを見つけることはできなかった。
 「ふっふっふ・・・母上様も、やってくれるじゃないの・・・」と、呟いた。
 「 自分で決めたことなのだから、しっかりと自分の足で歩いていきなさい」
それが、中身をすっかり出し終えた、空の段ボール箱に入っていた母のメッセージなのだと思った。

  母からぴしゃりと突き放されて、それから本当に自活する姿勢ができたのかもしれない。親に反発し、早くから親離れができていた、と、思い込んでいた頭をゴツンと叩かれて、そうしてようやく自分だけで歩き始めることができたのだ。

  この話には後日談がある。仕事も安定し、そこそこの給料も貰え、盆と正月の帰省の時には両親への土産も持って帰れるようになった頃のことである。最初に送って貰った小包を、ひっくり返し、ひっくり返して、お金を探したことが懐かしくて話したら、珍しく母が怒った。

 「あんたは、何でちゃんと言わないの。困っていたなら、いつでも送って上げたのに・・・」
就職して、きちんと給料を貰っているとばかり思っていたので、父に内緒の小遣いはもう必要ないと思っていたらしい。こちらの思い込みだったが、突き放してくれた母も、そして娘に勘違いされて怒っている母も、全部ひっくるめて、まことに母はありがたい。

  東京での5年半は充実していた。好きな道に入って、思いきり仕事をしていたあの期間がなかったら、もしかしたら、いまだにグズグズと自分の歩いて来た道を後悔していたかもしれない。

  縁あって結婚した先は古里に近い町だった。そう、結局は津軽に戻って来たのだが、さてそれからである。正月というとニコニコと笑って
 「はい、お年玉だよ」といってポチ袋を渡してくれる。
遠慮して断ると寂しそうな顔をするので、有り難く受け取ることにした。小太りだった母は少しほっそりし、ぷっくりしていた手も、それなりに皺が増えて小さくなっていたが、嫁ぎ先のこの家に、泊まり掛けで遊びに来た時など、
 「世話になるからね」 と、言いながら小さな包みを渡してくれる手はいつも温かかった。





   手の温もり 4


  結婚する為に津軽に戻って、それから10年後に父は他界した。1990年のことである。身体の弱かった母が、父の死に耐えられるだろうかと心配したが、こちらが思う以上に母は強かったようだ。悲しさも寂しさも、なくなる訳ではないが、いつまでもそれに浸っていてはいけないと自分に言い聞かせたのだろう。

  母と娘三人が、連れ立って旅行をしたことがある。行き先は伊勢。実家は神道で、母は神道の家に生れて神道の家に嫁いでいたが、伊勢へは一度も行ったことがなかった。父が亡くなって二年後、父を懐かしみながら、皆でお伊勢参りをしようという事になったのだ。生れて初めて飛行機に乗って東京へ行き、二番目の姉のいる川崎に一泊、翌日新幹線で伊勢に向かった。

  伊勢では昔から「お伊勢参り」のお客さんが泊まるという古い旅館に宿を決め、伊勢の町の風景を楽しんだ。荘厳な伊勢神宮にお参りしたあとは、一度は訪れてみたいと思っていた志摩へ足を伸ばし、ミキモト真珠島とジュゴンのいる鳥羽水族館へ行った。伊勢と志摩、二泊三日の短い旅だが、その時の母娘揃っての旅行は忘れ難いものがある。

  その後、母は、ちょくちょく我が家へ遊びに来るようになり、この場所を根城として、其方此方へ泊まり掛けの小旅行も楽しむようになっていた。
今、目の前に一枚の写真が飾られている。それにはフキノトウが沢山生えた斜面をバックに、砂利道を歩いている母と私の姿が写っている。斜面と砂利道の間には小川が流れていた筈だが写真には写っていない。つまり何の変哲もない写真だが、その二人の楽しそうなこと、そして互いの手はしっかりと握られている。
  いつの頃からか、連れ立って歩く時には母と手をつなぐようになっていた。膝を痛めたり、腰痛があったり、シャンっと背を伸ばしてはいたが、やはり段々と小さくなっていく母の姿。幼い頃とは逆に、わたしが母を気づかう番になっていた。

  父が亡くなったあと、母は9年半生きて、それから生涯を閉じた。
  沢山の楽しい思い出を残し、自分はさっさといってしまったのである。闘病生活の長かった父にはそれなりの世話をすることもできたが、母の場合はあっという間のことだった。

  野の花が好きだった母に、月見草の種がほしいと頼んだことがある。
 些細なことでも、何かを頼まれることが嬉しかったのだろう、それからしばらくして、種のことなど忘れた頃に母から手渡されたもの、それはフィルムケース一杯に詰められた月見草の種だった。こんなに一杯の種を、と、驚いた。実家の周囲には沢山の月見草が咲いていたが、それでも小さな種を集めるのは根気のいる作業だったろう。嬉しくて、半分は残して半分だけ種をまいた。それが毎年、庭のあちこちで花を咲かせている。二年草のその花は、最初の一年をロゼット状の形で過ごし、冬を越して翌年の夏に花を咲かせる。

  最初に咲いた場所から結構離れて、数年後に意外な場所で育っていることもある。お茶目な母がいたずらをしているようで、それが私には嬉しい。種をこぼして、いつのまにか広がり、草と一緒に抜かれても、いつのまにかどこかで花を咲かせている。
  母が摘んでくれた種は、まだ半分くらい残っているが、たぶんそれを蒔くことはないだろう。おそらく、あの小さな手にフィルムケースをギュッと握りしめて、種を採り入れてくれたのだと思う。直に手をつなぐことは出来ないけれど、今でも母の手の温もりが、その丸いケースに残こっているような気がして、自分の気持ちも温かくなる。




            


      注、月見草−実家のある十三湖から海岸にかけて咲いているのは、
               本来の「月見草」ではなく「オオマツヨイグサ」のことで、
               母は好んで「宵待草」と呼んでいた時期もある。








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