モヒヒン2号と、パソコン先生



1、上書き保存と繊維に直角!?    2、モヒヒンとモヒヒン2号  3、スクリーンセーバー    

 4、パソコン先生その1     5、パソコン先生その二       6、なぜパソコンなのか

 7、モヒヒン2号とパソコン先生    8、モヒヒン3号&モヒヒン4号   9、写真とパソコン




 1 上書き保存と繊維に直角 !?

  コンプレックスがある。字が下手、数字に弱い、挨拶程度の英語も分からない、料理の下ごしらえは出来るが応用が利かない。毛虫が恐い。毛虫が恐いのは、コンプレックスと言うよりも私の弱点であって、どうってことは無い。まあ一番目に来るのは、やはり字が下手なことだろう。友人には
  「まるで庭のタマグラ(大きなミミズ)が這い回っているようだ」と、言われたことがある。

  そういう字なので、自然と手紙も、季節の便りの簡単な葉書も書かなくなる。年賀状は出さないか、あるいは夫任せ。宛て名ぐらいは書かなければと思うのだが、それさえも夫任せ。いや、たまには書くが、きちんと右上から書き始めた住所が、いつのまにか真中に向かってゆき・・・。まったく、幾つになってもこの調子で嫌になる。

  そういう時にワードプロセッサーなるものを使い始めることになった。
  このワープロというものが一般に出回る遥か前に、英文タイプライターと出会ったことがある。1970年代始め、短大に行き始めた頃のこと、高校時代の先輩の部屋を訪ねた時に、コタツの上にデンと置かれているのを見た。映画やドラマで見たことのあるハイカラな形。

  そのキーを叩くとパチンと字が打ち込まれ、それを続けていると、やがてチンッという音が聞こえて、次の行に移る。一度はカチャカチャと打ってみたいと憧れていたものに、容易に巡りあえてしまった。
遊びに行くたびにカチャカチャカチャ・・ではなく、ポチ・ポチ・ポチ、と打ち、チンッという音が出るのを楽しんだ。

  それから二十年以上経って、自分専用にしていいというワープロが、目の前のテーブルの上に置かれた。
懐かしい、四角だが丸みを帯びたレトロなキーではなく、角の立ったキーと、黒い今時の形のキーボード。ローマ字打ちと、ひらがな打ちのどちらを選ぶのかと聞かれて、迷わずひらがな打ちにした。ローマ字打ちなど、出来る筈が無い。
  打ち込んだ字が印刷されて出てくるのが楽しくて、いつまでも打ち続けていたい気持ちになる。友人への手紙。園芸日誌、山野草の覚書。とりあえず何でも打っては記録していく。

  記録をするものというとフロッピーデスクになるのだが、使い方も、その仕組みもピンと来ない。一番理解できなかったのが「上書き保存」という言葉だった。上に書く。上に書くということはその下に何かある。下にあったものは何処に行くのか。

  単純そうなのに分からなくて、考え悩んでいると、ふと思い出すことがあった。
  結婚した当初のこと、台所に、買って来た大きな肉の固まりをドンと置き、
  「繊維に直角に切っておいて・・」と、夫が当たり前の顔をして言う。
  こっちは初めて聞く言葉だった。繊維、肉の繊維とはなんぞや。しかもそれに直角に包丁の刃を当てろという。肉の繊維って、なんだべ・・・・・。

  理解できずに、下手な切り方をしていると、
  「だから、繊維に直角と言ったのに・・・」と不機嫌そうな声が聞こえてくる。
  「だから、繊維ってなんなのさ・・・」こっちだって頭が爆発しそうになっている。
  鴨をさばくことができるし、魚だって結構大きなものも普通にさばける。切り身しか見たことの無い世代とは訳が違う。しかし、肉の繊維に直角とは理解し難い。

  それを理解し、大きな肉の塊を出されても、たいていの物は繊維に直角に、あるいは繊維に沿って切り分ける事ができるまでにはかなりの時間を要した
 上書き保存という言葉を、どうやらこうやら理解し、ワープロを使うのが面白くなるまで、やはりかなりの長い時間がかかったと思う。
  人生で初めて出会った言葉。「上書き保存」と「肉の繊維に直角」まったく関連性の無いものだが、何が分からなかったのか今ではそれが分からない、という点で、二つの言葉は私の中で結びついている。



先輩の部屋にあった英文タイプライター

「あのタイプライター、懐かしいね」と言ったら
「ほら、こいつだろ」と言って目の前にポン!

頭の中にあったタイプライターは
もっと大きいと思っていたが、意外とコンパクト。
キーは強く叩かないと、パチンと字を打ってくれない

それにしても懐かしい♪




 
2、 モヒヒンとモヒヒン2号


  なぜか増えてしまった縫いぐるみの中に、たった一つだけ名前の付いているものがある。それが「モヒヒン」
  モヒヒンが、我が家にやってきたのは1990年春のこと。と、いえば父が半年以上の闘病生活の末に亡くなったときである。葬儀の準備の為に実家に行き、やる事が山ほどあって慌ただしく時間が過ぎてゆく、その最中に知らされたのは可愛がっていた猫の死だった。
  「ミャンが・・・今朝・・車にひかれて・・・」夫の言葉が信じられない。
  庭に迷い込んだ仔猫を拾って育て、一緒に暮らしたのは3年半ぐらいのもの。当時は家の中に入れることができず、玄関脇に小屋を作って猫部屋にした。それがミャンの頭文字を付けた、現在の「Mハウス」である。寒い季節には毎日、朝夕、湯たんぽを運んで寝場所を温めた。暑い季節には窓を開け放し、自由に庭で遊び回っていた。そのミャンが、もういないという。

  葬儀が済んで家に帰り、空っぽのMハウスを覗いて、ミャンがもういない事を確かめ、自分に言い聞かせ、そうして二階へ行ったら部屋の真中に、でっかい馬がいた。
  胸にはチャンピオンのバッジを付け、腕には大きな人参を抱え、のんきな顔をした大きな馬の縫いぐるみ。スマートなイメージの馬とは程遠い、体の半分が頭のような、鳴けばヒヒーンの前にモ〜〜と言いそうな、その姿が面白くて思わず笑ってしまった。笑いながら抱きしめていたらポロッと涙がこぼれて、そして縫いぐるみに初めて名前をつけた。それがモヒヒンである。

  モヒヒンが我が家に来た1990年は午年だった。それから12年後の午年に大きな変化が訪れる。数年使ってようやく手に馴染んできたワープロが壊れ、自分専用のパソコンを買うことになったのだ。安い買い物ではない。手元にきても使いこなせるかどうかも分からない。しかし、ワープロを打つ事が生活の一部のようになっている時、キーを叩く事ができなくなるのは考えられない事だった。

  夫と私とは高校時代の先輩後輩に当たるのだが、早年生まれの夫は午年で、私とは同い年。午年夫婦ということで、12年に一度の午年には何か記念になるものを購入していた。そのお金を自分の為に使うのは気が引けたが、パソコン大好き人間の夫は迷わずパソコンを購入する事を薦めてくれ、有り難くそれを受け入れた。そうして手元に来たノート型のパソコンに、せめて馬にちなんだ名前を付けようと、モヒヒン2号と名付けたのである。

  パソコンに関して、覚える事は山ほどあるが、一番先に始めたのは、ワープロ時代のひらがな打ちから、ローマ字打ちに切り換えることだった。これは私にとって楽しい作業で、形から入るとでもいうのか、たとえば「椿」という文字を打つのに、ひらがな打ちでは「つばき」と打って変換するが、ローマ字打では「tubaki」と打って変換する。

 打っている時に、モニターに一瞬現れるアルファベットが、実は素敵に見えていたのである。つまり「つ」と打つ時は「t」が一瞬見えて、それから「つ」に変る。「ば」と打つときは一瞬だけ「b」が見える。それが私には、実にかっこよく羨ましく見えていたのだ。英語に弱い、イコール、ローマ字打ちは難しいと、端から思い込んでいた。まずはそこを突破しなければならない。しかしそれは思いがけず楽しいことになる。パソコンに付属しいていたゲームソフトで遊びながら覚えていったのだ。

  現れては消える文字をピューン・ピューンと打っていく、初級だけだったがローマ字打ちが楽しく学べる。この調子でパソコンも覚えて行ければ楽勝か、いやいや、これからパソコン先生とのバトルが始まるのである・・・なんてネ♪


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3、スクリーンセーバー

  スクリーンセーバー、3Dフィッシュアクアリウム。全てはここから始まった。なんて言うと大げさだが、確かに、これが私のパソコン生活の第一歩と言えるかもしれない。自分が買って使用する、という興味を持ってパソコンショップに入った時、一番初めに目に飛び込んで来たのが、3Dフィッシュアクアリウムの鮮やかな画面だった。
 明るく、華やかで、生き生きしている、第一に泡が途中で切れずに上まで上がっていく。元々、水族館が好きで、将来はキャンピングカーで全国の水族館巡りをするのが夢だ。まずはCGの熱帯魚を自分のコンピューターの画面に映し出して、飽きるほど眺めていたい、と、思った。

 パソコンを買う時の基準は人によって、かなり異なるようで。色や形にこだわる人。スピーカーの位置にこだわる人。性能一本槍の人等々。私の場合は機種や性能は夫に任せて、まず、熱帯魚のスクリーンセーバーを自分の物にしたい、と言う気持ちが強かったような気がする。そうして、それが実現した時、この中を泳ぐCGの魚達は、パソコンを覚えていく上で重要な役割を果たしてくれることとなった。

 パソコンが届いたのは2002年1月末のことである。以前、ワープロを使っていたとは言っても、パソコンとなればまた、新しく覚えなければならない事が山ほどあるはず。果たしてそれが自分に出来るのかどうか、不安ばかりが先に立っていた。その時に、画面の上を自在に泳ぎ回る熱帯魚の名前を、まず覚えてみよう。それが出来たら新しい事を覚えるのに、自信が持てるかもしれないと考えた。

  画面上で泳ぎ回る7匹の魚の名前を書き出して、パッケージの写真と合わせていく事を繰り返し、6回目で20匹全部の熱帯魚とその名前を一致させる事ができた。好きなものは覚えられる。大丈夫。自分にも出来る。そんな、自信のようなものが湧いてきて。目の前で泳ぎ回る熱帯魚の名前を繰り返し、頭の中で唱えていたのが今では懐かしい。

 その次に始めたのは、イラストの変化だった。コピー、貼り付け、拡大、縮小、トリミング、明るさの調整、等々。これもやはりパッケージにある写真を取り込み、20匹の熱帯魚をバラバラにして並べ替え、それぞれに名前を付けていく。今、同じ事をやれば、どうという事も無く出来るが、最初のうちはワードだけを使っており、その中でイラストの並べ替えや、図形の変化を覚えるのはかなりの時間がかかった。

  ワードの中で飾り枠やイラストなどの図形を入れ、文字を打ち、カードや季節の便りを作っていく、それが相変わらず難しく、一つのものを作りあげるのに苦労している時、夫が買って来てくれたのは「パブリッシャー」という編集ソフトだった。夫自身が機関紙の編集などを手がける事が多く、そういう時はワードよりも扱いやすい編集ソフトの愛用者である。

  何を作りたいのか、その目的にもよるが、ワープロソフトに比べると、自分の作りたかったものが格段に優しく出来るのに驚いた。どうして最初から使わせてくれなかったのか聞いてみたら、
「ワードで苦労しないと、基本を覚えられないから」
という答えが返ってきた。そうなのである。ワードで苦労していた期間は二カ月くらいで、その間に、ローマ字打ち、図形、ワード、ファイルとフォルダーの関係などを覚えていったのだ。

  無論、一人で覚えた訳ではない。先生がぴたりと側についていた。パソコン先生は夫である。
1981年にはパソコンを購入、手さぐりで覚えてきた人だ、と言って最初からその機能を使いこなしてきた来た訳ではなく。最初の頃にやっていた事と言えば「雀狂」というゲームソフトで麻雀を楽しんだと言うのが、一番の思い出にあげられる。一冬を二人でゲームに明け暮れた事もあったが、その頃は遊びながらパソコンに馴染んでいくのが精一杯だったかもしれない。

 と、ここまで書き上げてパソコン先生のチェックが入る。パソコンに関しては専門用語や夫自身のパソコン履歴が深く関係してくる。改めて聞いてみたら、記憶にあるDOS/Vを遥かに通り越してフォートランという言葉まで飛び出し・・・、以下の話は次回に持ち越しである。

 
 


  4、パソコン先生その一

  1954年に夫も私も生れている。映画界ではゴジラ誕生の年。マンガの世界では手塚治虫氏の鉄腕アトムが子供達のヒ
ーローとなりちまたではダッコちゃんとフラフープが大流行、という時代だった。その中で夫が幼い頃から興味を抱いたのは電子計算機という言葉。家業は村に一軒の萬屋で、店には古い形のレジスターがあり、計算機に馴染みやすい環境でもあったらしい。

  新しいものに興味を持ち、取り入れるのが好きだった夫の父親は、古いタイプのレジスターが壊れた後、いち早く電動の計算機を購入している。QTー80(シャープ製)1969年当時99800円の値段で売られていた、それが最初の電卓。そういうものを間近に見ていて、単純な計算機ではなく、その上についた「電子」という言葉に強く惹かれた。そして成長するに連れ、SF小説にのめり込み、同じようなマンガやアニメを好きになっていく。

 大学入学は1972年。工学部応用物理学科を選ぶのだが、丁度その頃、大学教授とカメラメーカーが電子写真を共同開発するというニュースが写真誌に掲載された。銀塩写真から電子写真へと変わっていく時代。中学の頃から写真が好きで、暗室に籠もっては白黒写真のネガの段階から現像焼き付けを続けてきた夫が、「電子と写真」の二つの言葉が結びついた「電子写真」に深い興味を持つのは当然のことだった。銀塩から電子写真への変化、その時はなぜかそれ以上には進まずに立ち消えとなったらしいが、その言葉が強く胸に焼きついたことは間違いない。

 大学で夫が最初に出会った計算機は、実験のデータをまとめる為に使用した関数計算機で、アメリカの「テキサス・インスツルメンツ」という会社が製造元。関数30ぐらいを扱えるものであった。そして、その頃「関数計算機」と平行して出会いのあったのが「手回し計算機」というものである。

 大学に入ってまもなく天体観測同好会に所属、星の観測を続けていたが、星の軌道計算するにあたって、手書きの計算では3〜4週間かかるものが、手回し計算器で行うと2週間で答えが出てくる。更に研究室のコンピュータ言語、フォートランで計算すると一瞬で答えが出てくる。幼い頃に憧れた電子計算機の世界が目の前にあった。といっても研究室のコンピュータに簡単に触れる訳ではない。大学3年の時に、それまでは入ることを許されなかった研究室に入り、教授の指導の下でようやく実際に触れることが出来たのだ。

 憧れていた電子計算機ではあったが、4年生の時の計算機の実習「アルゴリズム」(問題を解決する為の手順や計算方法)を続けるうちに挫折することになる。しかし、その時に実習を続け、卒業後にコンピュータを扱う仕事に就いた友人が、後々の夫のパソコンライフに大きな力となってくれるのである。

  夫が大学卒業後に就職した先は、通信機器の避雷器のメーカーで職種はセールスエンジニア、殆どが営業だったらしい。場所は東京。そこで出会ったPC好きの先輩にも大きな影響を受けることになる。親しくなってから一緒に作ったのが「TK80」というコンピュータキット。プログラムが出来るPCはこれが初めてのこととなる。PCといってもその当時は電源もアダプタもなく、記録装置も付いておらず、時間をかけて作ったプログラムも電源を落とせば全ての記録が消えてしまう。後々、TK80用に売り出された周辺機器(サードパーティー)を買い足しながら組み立てを続け、カセットテープ状のものに記録、テレビの画面に映し出せるようになっていった。その過程をずっと見ていてPCの面白さを知ることになったとも言えるかもしれない。

  その先輩。今現在は福島県在住で、互いに最初に就いた仕事からは離れているが、今でも親しくさせていただき、PCのこと全般に渡って良い相談相手となっている。


  
* この章は殆どが夫から聞いた聞き書きである。
  パソコンを扱うのにはハードもソフトも、両方を知っていて使いこなす人と、機械的な知識がなく、ソフトを使って作業をする人とに分かれると思うが、夫は前者で私は後者となる。昔々からの事を改めて聞いてみると、常に、おんぶにだっこの状態でパソコンを使うようになった私とは全く異なる歩み方をしてきた夫がいて、なかなか面白かった。


 
結婚後は1982年 NEC PC8801 からパソコンライフが始まるが、それはまた次回へと続く。




   パソコン先生 その二

   1982年 NEC PC8801    ベーシックやマシン語で苦労。記録はカセットテープ

  1991年 NEC PC9801   知人が、システムエンジニアをしており、
 
                                   そのつてで仕事の払い下げを貰う。

   1998年 自作マシン     知人からの頂き物 Win95 弥生会計
                      スキャナ & カラープリンタ 

  2000年 マウスPC Win98  BTO 写真の加工、機関紙作りに使用

   2004年〜  DELL WinXP     


  夫が初めて自分のパソコンを購入したのは1982年NECPC8801だった。この頃は記録と言ってもカセットテープ の時代。ベーシックやマシン語で苦労し、教わりに行く場所も余裕もなく、そのかわり懸命にやったといえば麻雀ゲーム(雀狂)である。それには私も加わり、呑気な話だがパソコンを相手にする麻雀は楽しく、点数表までつけて一冬 を遊び通したことがある。その頃はまだ麻雀遊びが一般的で、夫も近所に呼ばれて遊んでくることがあった。つまりそういう時には夫は外で、私は家で、それぞれに対人間、対機械の違いはあるもののゲームを楽しんでいた 。考えてみれば、機械に馴れるという点ではゲームは良いものかもしれない。私のローマ字入力の練習も最初はゲームだった。

  ところで、当時のパソコンの記憶装置がカセットテープというのはかなり大変な事で、読み取りの時間も書き込みの時間も極端に長くかかる、その大変さに業を煮やして5インチのフロッピーデスクを購入。その後、3.5 インチ、と変化していく。パソコンそのものの変化も激しく、夢の機械と思っていた時代から、大きく移り変わろうとしていた。

 1991年にはNEC9801が家にやってきた。といっても購入したのではなく、知人がパソコンのシステムエンジニ アをしており、そのつてで仕事の払い下げを頂くことができたのである。

 1998年には同じように知人から自作マシンをいただいた事がある。Windows95。その頃から実際に写真も手が けるようになるが、その自作マシンではラム(RAM 随時書き込み読み出しメモリー)の容量が足りず、当時 コンピュータ関係の仕事に就いていた大学時代の友人に助けを求めた。PC本体を送り、一ヶ月かけてHDDとラムの増 設をして貰う事ができ、そのPCを使って写真の取り込み、修正、プリントを行い、古ぼけた昔の写真からアル バムを作る事ができたのだ(ホームページ、浜辺の詩の原形)

 2000年になって、ようやく自力でパソコンを購入(マウスPC Windows98BTO)その頃から写真の加工、修正、あるいは機関紙作りなどがスムースに行える様になっていく。パソコンとその周辺機器を使いこなせるようになるまでは、かなりの年数がかかっており、その間にパソコン関係の本だけは部屋に入りきれないほどに増えていった。それでも尚分からずに大学時代の友人に助けを求める。好きでその道に入った友人は、電話でのやり取りをしながら夜遅くまで付き合い、様々な事を教えてくれていたようだった。

 2004年から今現在まで使っているPCは、 DELL製 WindowsXP
 

 1982年から現在までの間に使った数台のパソコンは、払い下げで貰う事ができた古い機械も、知人の作った自作マシンも、使う用途は限られているが現在でも現役で動いていて、どのパソコンもそれぞれに大切な一台となっている。

 この払い下げのパソコンについて、忘れられない話がある。ある学校でコンピュータの一斉入れ替えがあったそうで、古いものを引き取りに行った時のこと、一部の生徒達が何を思ったのか今まで使ってきた機械やPCデスクを倒したり落としたり、つまり故意に機械や机を壊していたというのだ。その話を信じられない思いで聞いていた。今まで使ってきた機械に愛着はないのだろうか、初めて使い方を覚えた生徒だっているかもしれない。その学校やクラスが特別に学級崩壊などを起こしていた訳ではない、ごく普通の学校、普通の生徒だったという。それがどうしてと、いまだに不思議でならない。新しい機械が入る嬉しさがそういう行動を引き起こしたのか、一人が始めてそれが次々に連鎖反応を起こし、集団行動になったのか。中に人が入って止めるまで叩き壊す行為を続けていたという。物が溢れている時代、小さい頃から当たり前にパソコンがある時代に育った子供達が、少し可哀そうな気もする出来事だった。

  ところで、以前からふとした時に呟く夫のひと言がある。
  「あの頃は・・・お前に・・尻を叩かれたからなあ・・」
  はて、と考えて、夫に聞いてみれば、「あの頃」とは1998年に知人から自作マシンを貰った頃で、「尻を叩かれた」というのは、何かにつけて「どうして出来ないの」「何故できないの」と、言われたという。そいうふうに言われてみれば、確かに思い当たる節もある。写真をやりたくて、目の前にパソコンがあるのに目的とする事ができない。夫の、それまでの経験や知識を考えても、「やりたい事が、出来ない」というのが不思議でたまらなかった。だから「どうして出来ないの?」と、ただ不思議で夫に問いかけていただけのことである。

  しかし夫にしてみれば、そのひと言がグサリと来ていたらしい。目の前にパソコンがある。スキャナがあって、プリンタがある。しかし写真の加工も修正も、思う様なプリントも出来ず、挙げ句の果てに妻には「どうして出来ないの」と言われる。相当に頭に来て、しかし、そういわれる度に新しい事を覚えていった(良い方に考えて)ともいえるかもしれない。

  助けてくれた先輩や友人、マシンを提供してくれた知人達、そして尻を叩いたらしい妻によって今のパソコン先生があるのかもしれない。と、常に良い方に考える私であります♪



 
  6、なぜパソコンなのか

  結婚してからの生活の中で、パソコンやワープロが身近なものとなり、実際に使うようにもなるのだが、はたして私自身のコンピューターとの出会いはいつだったのだろうと、夫の話を聞きながら、自分の事も振り返って考えてみる事にした。

  1979年頃の事だと思う。様々な業種の中小企業に訪問し経営者の話を聞く仕事をしていたのだが、その訪問先で、新しく入れたコンピューターというものを見せて貰った事がある。機械の部品か何かを作っている製造会社だったのかもしれないが、仕事の内容は殆ど忘れている。ただ、経営者の喜々とした笑顔は覚えていて、
  「これからはコンピューターの時代が来る。自分の会社も将来の事を考えてコンピューターを入れる事にした。まだうまく使いこなしてはいないが、ともかく凄いものらしい。ずいぶん高価だし、大きいものだけれど、先の事を考えて設備投資をすることにした」
という内容の話を伺った記憶がある。

  そうして拝見させていただいたのは、学校の教室ほどもあるコンピュータールームだった。
  中に入る事は出来なかったが、部屋の中に大きな白い四角の物体が並べられ、空調設備をコンピューターの為に新しく整え、湿度も温度も管理されていた。驚いたのは入り口に設置したというエアカーテンで少しのホコリも持ち込まない為と聞いたが、それだけ繊細な機械がコンピューターだったのだ。当時はそれだけの設備を整える為には数千万円の資金が掛かっただろうと思われる。

   それがコンピューターとの最初の出会いだったかもしれない。どの経営者も夢の機械だと語ってくれる。一台の大きさが一部屋分もある様な、そんな機械が現在のように小型化し、自分が使う様になるなど当時は考えもしなかった。しかし、それから十年も経たないうちに一般家庭でもパソコンが使われる様になり。使いこなす事が出来ず、四苦八苦していたにしろ、夢の機械が目の前に置かれている状態が当たり前になってゆく。

  丁度その頃のことである。実家の父が病に倒れた。胃ガンの末期で手の施しようがないという。
手術は受けたが患部を取り除くことは出来ず、そのかわり食道から十二指腸へのバイパス手術を行い、医師には余命半年といわれたが、実際には2年半の間、母と共に生活することが出来た。その手術後から容態が安定するまでの1ヶ月あまりを父母と共に病室で過ごした。病弱な母と共に父の看病に当たっていたのだが、父が眠っている時などはこちらも暇な時間ができ、好きな本を広げていることもあった。その頃、夢中になっていたのは、ムツゴロウさんの愛称で親しまれている畑正憲さんの本。北海道の動物王国を主体にした話や、当時の生活など、文庫本にまとめたものを父の病室に持ち込んでは読んでいた。

  そしてその中に「ムツゴロウの絵本1、無人島の巻」(文春文庫 畑正憲 著)という写真と文章を組み合わせたアルバムのような本があった。写真好きの父のことである、もしかしたら興味を持ってくれるかもしれない。海岸の生活の楽しい写真も多く、元気づけられるかもしれないと単純に考えて、手術後、少しだけ元気を取り戻した頃にその文庫本を手渡した。父はその本を何気なく受け取って、しかしページをめくるにつれて目は輝き、表情は明るくなってゆく。
  あるページから目を離さない父を見て、側から覗き込んだら、両手に大きなタコを持って明るく笑っている女の子の写真が掲載されていた。忘れないよう、そのページに折り目を入れ、次のページに進む。ベッドの上に上半身を起こして、何度その本を見たのだろう。退院するころには、小さな文庫本に父の手垢と沢山の折り目が付いていて、新しかった本はくたくたに柔らかくなっていた。

  いつだったか、こういうものを作るのには幾らぐらいのお金が掛かるのだろう。と、父に訪ねられたことがある。こういうものとは写真と文章を組み合わせたアルバムのような写真集。聞かれて、何の知識も持たないまま、相当な金額がかかるのではと、つい、口から出てしまった。相当なお金。それ以来、父が写真集のことを言うことは無くなって、もしかしたら自分が父の夢をぶち壊してしまったのではと、ずいぶん後悔した。それ以後、なんの手立てもなく、また、父から写真の話を聞くこともなく、二年後、父は再入院、半年の闘病生活の末に旅立ってしまった。
  手術後の退院から再入院するまでの間に話す機会は何度もあったのに、その事については触れないままだった。また再入院後も写真の話を聞くことがなかった。病室にアルバムを持ち込み、なぜ一枚一枚の写真の思い出を直接聞かなかったのだろうと、いまだに後悔している。すぐに形には出来なくとも、昔の懐かしい話を聞くだけで、父の心を慰めることが出来たかもしれないのに・・・。

 後悔の念を持ちながら数年が過ぎ、パソコンが、もしかしたらその夢を叶えてくれるのではと思う様になっていた。
  夫が機関紙を作るときなど、一枚の紙に写真を貼り付け、文章を載せ、仕上げていく。写真だけのページも作ることができ、、文章だけのページも出来る、その二つを組み合わせたものも自在に作ることができていて。もしも自分でそういう作業ができたらどんなに良いだろう。夢のまた夢ではあったが可能性がゼロと言うことではない。

  パソコンでそういうことが出来たらどんなに良いだろう。そう強く思った時から、自分にとってもパソコンは夢の機械となった。






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7 モヒヒン2号とパソコン先生




モヒヒン2号 & Bee


モヒヒン2号 & Mee

 7、モヒヒン2号とパソコン先生

長い時間をかけて夫のパソコン履歴を聞いてみると、今まで見えなかったものも見えるようになってきた。一つには時間の流れの違いということ。
 幼い頃から電子という言葉に興味を持ち、コンピューターやカメラに憧れを抱き続けて来たのが夫である。私の場合、写真は身近にあったものの、それをコンピューターと結びつけて考えるようになったのは、たかだか十年くらいのもの。同じ年に生まれ、同じ時を過ごしてきていたように見えていて、しかし、この開きは意外と大きかったのである。

 何かを覚える時、何かを新しく始める時は、冬が良い。
 津軽の冬は長くて厳しい。しかし、私の場合、外の仕事は雪かきぐらいのもので、一日の大半は家の中にいることが多く。稼業があっても、自由になる時間はたっぷりとあった。

 パソコンが届いたのは2002年1月の末のことだった。そのころには居間に自分のデスクがあり、ワープロもテーブルの上に乗せてカチャカチャと打つことは無くなっていた。

 元々が村で一軒の萬屋。お客様が来れば直ぐ店に出られよう、店にくっついたような小さな部屋が居間である。私はその居間を長いこと好きになれなかった。部屋が小さいから嫌というのではない。居間には窓と呼べるものが付いていなかった。居間と一つ続きなっている、東側の台所の窓が唯一の明かり取りで、あとは壁とガラス戸に囲まれており、ガラス戸の向こうは一方が店で、もう一方は廊下だった。


 朝から夜まで、ずっと居なければならない部屋は暗く、一日を通して、電気を点けなければ生活できない。家の中には、日差しの入る明るい部屋が幾つかあるが、それはどれも使われていない部屋だった。
 
 そういう暗い居間を、少しずつ変えていったのは大工仕事が趣味の夫。パソコン先生は我が家の大工さんでもある。畳からフローリングにし、椅子とテーブルの生活ができるようになっていた。廊下をつぶして少しばかり部屋を広げ、そして部屋の片隅に、私専用のデスクをこしらえてくれたのである。
 どんなに小さくても自分の場所ができたのは嬉しい事だった。それだけで今まで好きになれなかった部屋が好きになり、何時間でもカチャカチャとキーを叩く事ができた。居間が、そういう居心地のよい場所になったのは、結婚から20年を過ぎた頃のことである。
   
 夫のデスクと並んでいるその場所に、今度はワープロに代わってノートパソコンが置かれ、そして私のパソコン学習が始まった。

上の写真は二枚ともその当時のもので、日付は2002年3月半ばとなっている。少しはパソコンに馴れてきて、ワードで花のカードや3Dフィッシュアクアリウムの熱帯魚たちの表を作っていた頃である。頭の中がクラクラするくらい覚えるのが辛かった。パソコンを覚えたい気持ちは目一杯あるが、機械に触るのが恐い。下手にキーを叩いて壊したらどうしよう、モニターが一瞬で黒くなったらどうしよう。エラーが出て、そのたびに夫に声をかけ、そしてその度に言われることは
 「自分で、どこかを押している」「知らないうちに、いらないキーを叩いている」
触った覚えがなくても画面が変わっていてエラーが出てくる。その度に同じことを言われる。
 「お前が、触っているから、そうなるんだ」
もう一つ、際限なく言われた言葉があった。
 「さっきも言ったけどーー」「前にも言ったようにーー」「何回も言うけどーー」「この間も言ったように」「だから前にも言ったようにーー」

 繰り返し、繰り返し、同じことを言われると、本当に、もしかしたら自分は物覚えの悪いバカな人間なのではないだろうかという気持ちになってくる。それが、正直にいうと、辛かった。夫が出かけた後は必死になってマウスを動かし、そしてパソコンのキーを打ち続けていたが、ある時ふと、夫に仕返しをしたいという気持ちに駆られた事がある。仕返しも何も、まるで逆恨みで、教えてくれている人に対して思う事ではないのだが。実際にそういう気持ちになったのは事実である。

 部屋いっぱいになって、廊下まではみ出して置いてあるパソコン関係の本。その本の全部のページを糊付けしてやろう。帰って来て、夫はどんな顔をするだろう。今ついているパソコンの電源を、ブチッと切っても良いかもしれない。夫の困った顔がみたい。そして少しの時間が過ぎれば、そういうことを考えている自分が惨めになってくる。バカな事を思いつくものだが、それだけ気持ちも追い込まれていたのかもしれない。

 何人かの女友達もワープロやパソコンを覚え始め、あるいは既に使いこなしている人もいたが、誰一人として自分の夫から習いたい、あるいは夫に習ったという人はいなかった。亭主から習うなど考えられないと、口を揃えて言う。何故だろう、と、自分の事を考えると、それまでの夫婦として横に並んだ、ヒフティーヒフティーの関係が崩れて、上下の関係。つまり教える側と教わる側に分かれるからではないだろうか。上から見下ろし、あるいは背中に回ってあれこれ指図し、そして、「これが分からない」と言うと「何回も言うように・・・」である。

 かなりの愚痴を言っていると、よく分かっているのだが、そういう時間を経てようやくパソコンに馴れていったのである。

 パソコンを恐がらずに触れるようになったのは、半年ぐらいしてからのことかもしれない。喧嘩腰になりながら夫に叩き込まれた、「ファイルの概念と管理」が理解できるようになるまで更に時間が掛かった。
 パソコンを始めて6年が過ぎ、最初のノートパソコンから、いまではデスクトップ型のパソコンを使い、それも三台目、つまりモヒヒン4号を今は使っている。一番大きな目的だったホームページを立ち上げ、昔懐かしい父の写真や自分の趣味の写真なども公開できるようになった。全面的にと言うにはほど遠いが、夫の手を借りずに何かしらのことが出来るようになった自分が、少しだけ嬉しくもある。







  8、モヒヒン3号&モヒヒン4号

 さて、そろそろパソコン先生も終わりに近づいて、ホッとしたと思ったら、それまで黙って読んでいた主人が、ぽつんと呟いた。
 「6年の内に3台のパソコンか・・・ふーん・・・」
 それって、どういう意味? と、私も考えた。
 例えば6年の内に3台のテレビを買い換えるといったら驚く筈。冷蔵庫や、洗濯機や、オーディオだって6年で3台ということは滅多にない。では、どうしてそういう事になったのか・・・。

 まずパソコン一台目のモヒヒンン2号は、ノートパソコンで、購入後一年を待たずにハードディスクの交換という事になった。少しずつの変化はあったもののまさか壊れるとは思わず。そのまま使い続けていた。ファイルのバックアップも万全ではなく、永久に取り戻せなくなったデータもある。その代わりに、パソコンは壊れるものだという事を知った。相手は人が作った機械なのだ、何かの拍子に壊れる事だってある。

 壊れたノートパソコンはメーカー送りとなり、保証期間内だったので無償での取り替えとのこと。10日ほどの日数を要したが、それが私にとっては意外と良い時間になった。簡単な本でもいいから一冊通して読んでみて、パソコンの勉強をするのも良いかもしれない。という夫のアドバイスを、珍しく素直に受け入れたのだ。
 それ以前にペラペラと目を通していたのは、「パソコン基礎の基礎」という薄い本で、それよりもほんの少し内容の濃い「すっきり納得、ウィンドウズの本当の使い方」という、やはりページ数は少ないものの、知りたい事が書いてある本。それを頭から全部を読み通してみたのである。

 一年近くパソコンと格闘してきていて、何が分からないのか分からないという所からは少し進んでいる自分がいた。本を読んでみて、なんとなく書いてある事が分かる部分も出てきた。その時に覚えた一つの事はGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)
その本の中で「お洒落な人はグーイと呼ぶ」というような事が書いてあって、すっと胸に入ってきた。夫が苦労してきたベーシックやマシン語を覚えなくても、マウスとアイコンがパソコンと私を繋いでくれる。そういう事を知っただけでもパソコンの無い期間に一冊の本を読み終えたことが、私にとっては有益なことだったといえるだろう。そして修理の終わったパソコンが手元に戻ってきた時の嬉しさは格別だった。勿論、その後はデータのバックアップをとる事は忘れず、きちんとした管理を、なるべく行うようにしている。

 パソコンを一から覚えて愛着もあったが、本格的に壊れる時がきた。何故かは分からないが言うことを聞いてくれない。もうだめかもしれないと思い始めた時、入っているデータをCD−RWに落とし、当時LANで繋がっていた夫のパソコンにも殆どのデータを移して、それからまもなくモヒヒン2号はピクリとも動かなくなった。

 そしてモヒヒン3号の登場である。最初はデスクの上に目立たないようにちょこんと置けるノートパソコンを買い、ひっそりと覚え始めたのだったが、2台目には、思い切りよくデスクトップ型のパソコンを購入。
パソコンを使い始めて一年間は我慢していた写真も、その頃には加工や修正も覚え始め、ますます面白くなっていた。
 編集ソフトを使って季節の便りを作る。愛猫の写真や季節の花を取り込んで、より楽しいものに作り上げる。ドライブに行けば、いった先々の景色や花を記録するなど、何を作っても楽しかった。
 店の一角に園芸コーナーを設け、昔から並べていた鎌や砥石などの他に土や肥料、花苗なども置くようになっていたが、自分でブレンドした土の説明や花苗の価格カードを作ったり、園芸コーナーの簡単な経理をエクセルで作っては喜んでいた。

 モヒヒン3号を使っていたのは3年くらいだったろうか、写真をやり始め、ホームページも作り、生活の中にパソコンは不可欠なものになっていた。
 そういう時に店の事務用のパソコンに不具合が生じ、モヒヒン3号は事務専用に、そして新しく購入したパソコンがモヒヒン4号となって、現在に至っている。

 好きになれなかった小さな暗い居間に、今では夫や事務専用のものも含めて3台のパソコンがあり、周辺機器として、プリンタが3台、スキャナが1台、フィルムスキャナが1台、外付けのハードディスクなど小さなものがごちゃごちゃある、という状態になっている。初めてこの部屋に訪れる人は皆が驚いた顔をし、同じように、言うことは
 「これが居間なの? この機械だらけの部屋にいて落ち着くの?」
 「こういう狭い所でパソコンを動かしているの?」等々、しかし、不思議なことに、今ではこの場所、この空間が一番落ち着ける場所となった。

 ホームページを作り、父の写真を沢山の人に見て貰い、ここに居ながらにして外の世界と広く交流できるようになったことが大きな喜びである。また、パソコンを使えるようになったことで、自信をもてるようになったことも大きな収穫だった。そういう機会を作り、パソコンを一から教えてくれた、たった一人のパソコン先生に感謝である。ただし、パソコンについて新しい事を覚える時には、ついつい身構える癖がついてしまった。
「前にも言ったけど・・・」というパソコン先生の言葉が、後ろから追いかけてくるような気がするからである。


 次回は、おまけとして写真の事を少々・・・。





9 写真とパソコン




  幼い頃、夜になってから枕元で始まる写真の焼き付け引き伸ばしは、いつでも楽しく、待ち遠しかった。
  暗い部屋に赤い小さな暗室ランプが灯され、枕元に薬液の入ったバットが並べられる。側には引き伸ばし機が置かれ、作業が始まると皆が布団の中から首を伸ばして父の手元を見つめる。ネガを差し込み、ぐっと引き延ばして更にトリミング。焼き付けの終えた印画紙をバットの中に滑り込ませ、竹のピンセットで端をつまみ、静かに左右上下と揺すっていく。そして真っ白だった印画紙に、魔法のように写真がフワッと浮かび上がってくる瞬間は何ともいえないくらい楽しかった。


  翌日には風呂場に写真が下がっていることもあったし、また、専用の写真乾燥機が入る前は、ブリキの一斗缶の中に濡れた写真を貼り付けた薄い鉄板を入れ、白熱電球で乾燥させていることもあった。そうすることでピンっと張りのある写真が出来上がる。

  しかし出来上がった写真には、気がつかないままに現像の時に出来たフィルムの傷や、焼き付けの時に印画紙に埃が乗ることもあり、その部分の修正が始まる。墨をすり、小筆を使って修正してゆくのだが、思った色が出なくて歯がゆくなってくると、時には小筆の先、つまり墨の付いた筆を唾液の付いた舌先で舐めて調節するという光景もしばしば目にした記憶がある。そうして出来上がった写真を並べ、ストーリーのある組み写真を作るのが、父は得意だった。

  手に馴染んだカメラはウィンザー35だったが、それが壊れて使えなくなった頃から写真からも少しずつ遠ざかり、また面白がって被写体になっていた私たち自身も、それぞれに思春期を迎え、あるいは反抗期も混じって、写真を撮られることから逃げ出すようになっていた。
  しかし子供の頃の写真の思い出は限りなくあり、写真が好きという気持ちが何処か心の片隅に根付いていたようだ。後々自分でも写真を撮り、現像焼き付けをするようになるのだが、フィルムの現像液の匂いも、焼き付け後の定着液の匂いも全てが懐かしく、その一つ一つが父の思い出に繋がってゆく。自分でDPEをやっていた期間は長くはなかったが、写真の面白みを思い出し、味わい、楽しんでいた。

  時を経て色褪せる写真にも深い味わいがあるが、傷のないセピア色の写真だけが上手い具合に残される訳ではない。

 何らかの理由で傷つき、染みができ、保存場所が悪ければカビも生えてくる。そういう写真が沢山あり、どう処理すればいいのか、修復はできるのか、ネガからの引き伸ばしは可能だが、長いこと使っていない暗室に、また灯をともすのは簡単なことではない。数々の道具を揃え直すことも、また夫と一緒の時間も思うように作れなくなっている。 その全部を一挙に解決してくれたのがパソコンだった。明るい部屋にいてDPEに変わる仕事の全てができるのは驚異的なことである。

  上の二枚の写真を見比べてみれば、修復の大切さが分かって貰えるかもしれない。
この写真。実はその存在もすっかり忘れていた一枚である。両親が亡くなってのち、姉妹3人がそれぞれに作っていたアルバムを一つ所に集めて、まとまったアルバムを作ることにしたのだが、その時、偶然出てきた写真だった。
  船を走らせながらの引き釣りを、いかにも楽しんでいる父がいる。笑っている父が口にくわえているのはタバコで、これもかなり珍しい。その隣で、はにかんでいるのが幼い頃の私で、頭を見れば最後の刈り上げおかっぱのように見える。イヤでイヤでたまらなかった刈り上げも、こうしてみれば懐かしい。
  しかし、写真には大きな傷ができていた。

  パソコンでの写真修復は、厳密にいえば写真の修復というのではなく、データを書き換えた、ということにでもなるのだろうか。パソコンの画面に写し出されるのは画像で、プリントアウトすれば、それは写真ではなく印刷物である。しかし、どちらにせよ、大きな傷は無くなり、若かりし頃の懐かしい父の姿がきれいに写しだされ、生き生きと見えている。こういうことのできるパソコンが、今の私にとってかけがえのない存在になったことは確かだ。
 

  パソコン周辺機器の中にはフィルム・スキャナーもあって、傷ついた写真も、きれいなフィルムが出てくれば問題は即解決。なのだが、如何せん物事を一から覚えるのにはそれなりの時期が必要なのだ。私にとっての物覚えの季節は冬である。今は盛夏、秋が過ぎて冬が訪れる頃に、またパソコン先生とやり合いながらフィルム・スキャナーの操作を覚えることになるだろう。今の私には、それが楽しみの一つになったことが嬉しいことでもある。




 
10 モヒヒン

モヒヒン2号から始まって、思いがけなく長くなってしまったパソコン先生と、おまけの写真について、最後まで読んで頂いてありがとうございました。
  ここで時々尋ねられる元祖モヒヒンとでも言うのか、モヒヒン1号をちょこっとお見せしたいと思います。
 


                                 

  でっかい人参を抱えて胸には「90年チャンピオン」のバッジを付けています。
  このバッチ、どんなに色褪せても外すことはないでしょう。
   大好きな私のモヒヒンです。


                                                                                2008年8月3日




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